
再び言葉を学びに来るほど愛するに至ったフィンランドとの関わりについて書いておきます。
記憶する限りで初めてフィンランド人と知り合いになったのは、2000年にテンプル大の博士課程で学び始めて、クラスで初めて言葉を交わした相手のTiinaが、偶然フィンランド出身だったときでした。その頃はまだフィンランド自体、日本でそれほど話題になっていなかった頃で、自分としても特に気に留めていませんでした。
その2年後、自分の研究分野の国際学会がフィンランドで開かれたとき、そこで発表しに行ったのが初めてフィンランドを訪れたときでした。その学会は、今住んでいるTampereから電車で2時間くらいのところにあるJyväskyläという学園都市で開かれました。学会の後、家族も合流して、HelsinkiやPorvoo、古都Turkuへ観光したり、学会でたまたま知り合いになったタンペレ大学に所属していたアメリカ人の案内で、Tampereにも来たのはいい思い出です。
その頃は、今のように人種・民族的に多様化する前で、町を歩いているとアジア人と言うこともあってか、すごく周囲の視線を感じたのを覚えています。
それからしばらくフィンランドとは縁がなかったのですが、2000年の中頃からか、そのライフスタイルやデザイン性、教育や幸福度、その後はサウナに関連して、フィンランドが日本でもしばしば話題になるようになっていました。ちょうどその頃、NHKで放映された番組で、フィンランドの教育実習について紹介していたのを観て、自分自身が教員養成に関わっていたこともあり、とても興味を持ちました。
今所属している大学には、1年間職務を離れて海外で研究できる制度があり、2019年度にその制度を利用する機会に恵まれました。職務を離れても通常通りの給与は支給される上に、かなりの額の研究費も支給され、渡航費はもちろん、住居費やあちこち調査に行く旅費までもまかなえるくらいの予算でした。
行き先はどこでも好きなところを選ぶことができるので、ずっと気になっていたフィンランドを選択し、フィンランドでの教育実習の観察を研究テーマとしました。所属大学とタンペレ大学がたまたま交換留学制度の協定を結んでいたので、何かとつながりがあって便利だろうと、タンペレ大学とコンタクトを取り、客員研究員として受け入れてもらえることになりました。
フィンランドの教育実習をつぶさに観察したり、あちこちの学校の「普段の」授業を参観したりできて、とても充実した研究生活を送ることができました。同時に、フィンランドの言語や文化について学んだり、多くの友人を作れた実り多い1年間でした。ただ、最後は急劇に広がるコロナパンデミックに追われるように夜逃げ同然の帰国を余儀なくされました。
帰国したら、家の裏庭にフィンランド式のサウナ小屋を建てようと決心していました。今でこそ日本でもサウナブームの中、ロウリュ(löyly、フィンランド語で「蒸気」の意味)が知られるようになりましたが、当時はまだそれほど知られておらず、サウナといえばスポーツジムなどにある、カラカラで熱いだけのサウナでした。フィンランドで経験したサウナは、それとはかなり異なるものでした。
いろいろ調べて、フィンランドから小屋の材料やサウナストーブ一式を輸入できることがわかり、迷わず発注して日本に取り寄せました。コロナ禍ですべてリモート授業だったこともあり、2週間くらいかけて、近所の友人の助けも得てサウナ小屋が完成しました。夏は蒸し暑い日本の気候では懐疑的だった友人も、薪ストーブが作り出すlöyly(ロウリュ)の魅力にすっかり虜になり、それ以来は焚くたびに入りに来てくれます。
2026年度には、再び大学の制度を利用して1年間海外留学することが許されました。行き先はもちろんフィンランド。ただ、今回は前回のような潤沢な研究費はもらえませんでしたが、職務を離れて給料をいただきながら勉強できるだけでもありがたいことです。今度は研究が主ではなく、フィンランド語を習得するのが最大の目的です。ホームステイ先は、かねてから約束していた通り、Maricaの家。ところが、状況が変わって、その後旦那とは離別し、Tampereから電車でふた駅の町で、ログハウスの一軒家に独り暮らししていました(犬も2匹いますが)。いくら家族同然の付き合いとは言え、40代半ばの女性と同じ屋根の下で暮らすというのはいかがなものかと迷いましたが、まあ妹のようなもんだから、というMaricaの言葉もあり、ログハウスの2階をふた部屋に仕切ってくれたので、奥さんの了承も得て、お世話になることにしました。